うんちが漏れそう!

戯言だぽ☆

パン屋の女の子

俺は四十路だ。

この話題に触れるにあたり、自分の事をどこから話せばいいか悩んだ。

これ以降、思いついた順に、適当に書き下して行くこととする。

 

自分で言うのも変だが、俺は女ウケが非常に良い。

小学生のときから、やたらモテた。やたらという表現もおかしい。分かり易く言えば、学年で一番もてた。これは、高校に入ってからも、大学に入ってからも、社会人になってからも続いた。特に、美人に強かった。

 

理由は分からない。

聞くところによると、訳分からん、ひきつけるものがあるんだってさ。

ちなみに俺の外見は、バナナマンの設楽と、雨上がりの宮迫と、相撲の遠藤を、足して3で割った感じだ。

 

関係をもった女の数は、150人くらいなんかじゃないかと思う。

話しかければ飯に行けて、

飯に行けばチューできて、

チューできれば事を終わらせてた。

俺のベッドの毛布は、いろんな女の髪の毛が付着してた。

明るいところでみるとゲロが出そうになるくらいだった。

 

20代は、毎週、違う女と遊んでた。

たまに先週遊んだ女が、恨み節のメールや電話をしてくることがあった。

そして、みんなから同じことを言われた。

あんた、ビョーキだね。

それって、死ぬまで治らないビョーキだから、と。

次々と女に手をだす癖のことを、ビョーキと言ってるらしい。

 

このビョーキは、遊び慣れた女には全く問題無かった。

ビョーキ男に慣れているからだ。

だけど、純情な女や、本気で俺のことを好きになった女は、違った。

本気で傷ついてた。

 

俺は、いろいろあって(説明割愛)、35歳のときに、このビョーキを治すことを決意した。

 

具体的に、やることは一つだった。

「女と話さない」ってことだった。

「誘わない」では足りない。

現に「誘ってくれるまで1年は私待てます」って宣言してきた女も居たからだ。

面白いことに、世の中の女は、俺に話しかけるチャンスをやたらくれるってことだ。

分かり易いので言うと、ありえない失敗をワザとしてくる、ってやつだ。

たとえば、会計のときに、俺の目を見つめながら、お釣りを何回も間違えて渡してきたりとか。

  

俺は、話さないことを強く誓い、それを徹底してやった。

そもそも、フレンドリー人間で、話しかけることが癖になっている俺に、この誓いは本当にきつかった。

俺の人格に非常に響いた。

 

前振りが長すぎる。

さて、本題に入る。

そういうものあって、話しかけることにハードルができててさ。

このまえ、そのハードルを超えそうになった。

しかしね。

その瞬間にね。付き合っても、この子はフるな、っていうのが目に浮かんだよね。

 

その子、顔は超かわいくてタイプだけど、スタイルが俺の好みじゃないんだよね。

俺、背が高いモデル系が好きで。

その子は、背155くらい。胸も大きくない。デブじゃない。って感じ。

 

フることが頭によぎったら、声が出てこなくなった。

その子が可哀想になった。

こんなことなら貴方に出会わなければよかったって号泣されたトラウマも、うんざりするほどになってる。

という流れ。

 

ビスコ、教えてくれ。

俺は、どこか間違えているだろ?

光と影

20年くらい前の昔の話しだ。

9月の中旬。

私は、1レース目から中山競馬場にいた。

1レース目から、ものの見事に全部外れた。

6レースの新馬戦が始まるころに、私の所持金はゼロになった。

牛丼代として残しておく500円を除いて。

仕方なく、私は帰ろうとしていた。

私の目に、一人の厩務員の姿が入った。

その厩務員は、馬を引っ張っていた。

私は驚いた。

その厩務員が号泣していたからだ。

 

私は、はじめ、彼がミスして悔しくて泣いているのだと思った。

しかし、勘違いだった。

彼の引っ張っている馬は、さきほど3歳未勝利レースを終えたばかり馬だった。

 

このころの中山競馬場では、新馬戦が始まると同時にスーパー未勝利戦が始まる。

3歳未勝利馬が出られる最後のレース、と言ってもいいレースだ。

 

私は把握した。

どうやら、その馬の出せるレースは、その3歳未勝利レースが最後のようであった。

厩務員は、出せるレースが無くなった馬の行先を知っているようだった。

 

彼は、隅のほうで、馬の汗を拭いていた。

そのとき、スタンドの方から大歓声があがった。

6レースの新馬戦で、人気していた良血馬が勝ったようだった。

スタンドの大歓声とは裏腹、馬の汗を静かに拭く厩務員。

私は何とも言えない気持ちになった。

新馬戦を勝った良血馬は、この先、種牡馬としての道も拓けるのかもしれない。

その裏で、生かされることもままならない馬が、ここにいる。

私の中に「同じ馬であるのに」という言葉が浮かんだ。

 

私は、牛丼のために残しておいた500円を握りしめ、帰る方向とは逆の方向に歩き出した。

その500円で、午後のスーパー未勝利戦の馬券を買った。

ものの見事に、その馬券は外れた。

レース終えた馬たちの姿を、私は見ることができなかった。

 

私は空腹のまま家路についた。

空腹はとても辛いものだった。

しかし、その空腹の辛さは、牛丼を食べていない、そのことによるものでは無かった。

 

私は、これ以降、競走馬にとって勝たなくてはならない大事なレースを、選んで買うようになった。「次は、もう無い」というレースだ。

 

馬も人間も同じだと思う。

次が無い大事な一瞬一瞬を生きている。

その一瞬は、とてもさりげなくそこにある。

 

今日のダノンプラチナは、私にとってそういうレースだった。

だから単勝を買った。

私がダノンプラチナを推した理由を述べるならば、この話をする必要があった。

以上